【第11号】3. 日本発運賃の歴史と変遷(その3)海外旅行自由化以前の航空網

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1964年に至る道

日本の航空の歴史を振り返るにあたり、1964年というのは、無視することのできない重要な意味を持つ年です。
何と言っても、この年の4月1日に日本人の海外渡航が自由化されました。それまでは業務や留学など「海外に行かなければならない」理由がある場合に限って渡航が認められており、今で言えば「不要不急の」観光旅行は禁止されているような状態でした。
なお、自由化当初はひとり年1回限りとなっていましたが、1966年に回数制限は撤廃され、先立つものさえあれば、自由に海外を訪ねることができるようになりました。日本人の海外観光旅行が本格的に増えていくのはそれ以降、正確には円高と航空運賃の低廉化が進んだ1970年代になりますが、それはまた追々。

1964年にはもうひとつ、東京オリンピックが開催されました。10月10日は体育の日、と覚えているのは、ある一定の年代以上の方でしょうか(自分を含め)。今はスポーツの日と名前を改め、移動祝日になっていますね。
オリンピックのために海外から多くの選手・関係者や観客が日本を訪れ、当然その多くは飛行機でやってくるわけですから、日本の航空業界も俄かに活気づいたものと思われます。ちょうど、2020年大会での訪日需要を想定していた、今から数年前の姿と重ね合わせられるような感じです。

1960年代前半までの路線網

第1回で、日本航空最初の国際線は1954年に開設された羽田=ウェーク島=ホノルル=サンフランシスコ線であるというお話をしました。その後、順調に増えていった路線から、主なものを追って見ていきます。
と言っても、OFCは1984年設立。さすがにそこまで古い資料は残っていませんから、ここは日本航空のウェブサイトにある年表(JAL’s History)に頼ります。このコーナー、機材や制服の歴史を辿るページも用意されていて、なかなか興味深いので、お時間ある方はぜひ。

● 1954年2月 羽田=ウェーク島=ホノルル=サンフランシスコ線開設

● 同月 羽田=沖縄(那覇)線開設

● 1955年2月 羽田=沖縄線を延長し、羽田=沖縄=香港線開設

● 1956年10月 羽田=香港線を延長し、羽田=香港=バンコク線開設

● 1958年5月 羽田=香港=バンコク線を延長し、羽田=香港=バンコク=シンガポール線開設

● 1959年5月 羽田=ホノルル=ロサンゼルス線開設

● 同6月 羽田=アンカレジ=シアトル線開設

● 同7月 羽田=台北=香港線開設

● 1960年1月 羽田=アンカレジ=ハンブルク=パリ線開設(エールフランスとの共同運航/自社単独運航は翌61年6月)

● 1962年7月 羽田=香港=バンコク=シンガポール線を延長し、羽田=香港=バンコク=シンガポール=ジャカルタ線開設

● 同10月 南回りヨーロッパ線開設(寄港地は多過ぎるので省略。曜日によっても異なる)

最初はアメリカから始まり、その後アジア方面へ進出(当時の沖縄はアメリカ占領下にあったため、東南アジア扱い)。1960年代に入ってヨーロッパ路線が開設された、というのが大きな流れです。

こうやって見ると、けっこうなハイペースで新規路線ができています。既存の路線を延長する形で、少しずつ遠くに向かうような形が多かったのは、航空機の性能が今ほどよくなく(途中、順次ジェット機に変わっていきましたが)、航続距離の関係で途中での立ち寄りの必要があったのと、ある都市への直行便ではなかなか集客できず、いろいろな目的地の旅客を集めることで搭乗率を上げていた、という理由からです。

航空協定の壁

さて、これを見ていて、アメリカ一の大都市ニューヨーク路線が登場しないのを不思議に思われた方もいるかもしれません。羽田=ホノルル=サンフランシスコ=ニューヨーク線として定期便が就航したのは、1966年11月のこと。それまでは、ニューヨークに飛びたくてもできない理由がありました。
国際航空の世界では、二国間で、どのような旅客便を就航させられるかを取り決めるために、航空協定を結ぶことが一般的です(協定がないと就航できない、ということではありませんが)。アメリカの航空会社は、戦後ほどなく占領軍の許可により日本への便を運航していましたが、1952年に調印された最初の日米航空協定では、その路線を既得権として認める一方、日本側の新規就航先が大幅に制限され、ニューヨークへの乗り入れが叶わなかったのです。

当時、太平洋路線の代表格と言えば、パンアメリカン航空。日本でも「パンナム」の愛称で親しまれた、世界でも指折りの大手航空会社でした。その路線網が整っているところに、日本から週2あるいは3便で細々と飛行機を飛ばすわけですから、営業力の差も歴然としており、日本航空が集客に苦しんだのは、当然のことと言えるでしょう。1954年のサンフランシスコ就航当初、36席のうち埋まっているのはいつも1桁。予約が2桁に達すると、みんなで喜び合った、なんて話も聞いたことがあります。
それでも徐々に日本航空の旅客が増えていったのは、日本発の海外渡航需要によるものばかりではなく、アメリカに住む日系人が日本旅行する際に「サービスがいいから」と選択したことによる、という話も耳にしました。今も昔も変わらない日本航空の姿勢、という感じがします。

長くなりましたので、今日はこの辺で。
次回は海外渡航自由化の影響と、航空運賃の変動など、60年代後半から70年代にかけてのお話です。

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