【第12号】3. 日本発運賃の歴史と変遷(その4)海外渡航自由化と運賃の変化

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前回は、海外旅行が自由にできるようになった1964年まで、日本航空の路線網がどのように広がっていったのかを解説しました。
そして、渡航が自由化されて、庶民も気軽に海外旅行できるようになった、と言えればいいのですが、実際はそんなわけにはいきません。第2回で1954年、日本航空がサンフランシスコ便に就航した当時の運賃をご紹介した通り、国際航空運賃は大変高く、市井の人々にはとても手が届くようなものではありませんでした。

日本で最初の海外ツアー

一例を挙げると、日本人のための海外ツアーブランドとして日本航空が立ち上げた「ジャルパック」というブランド。これは1964年に誕生(発売開始は65年1月)し、翌65年に最初のツアーが出発しています。
当初設定されたツアーは、

● ハワイ9日間 378,000円

● ヨーロッパ16日間 675,000円

など全7コース。航空座席の供給量が増え、海外パッケージツアーが大衆化した現在と比べてやや割高に見えるかもしれませんが、添乗員付き、チップなど諸費用も全て込みと思えば、そんなに高いものでもない。
と言って済ませられないのが、第2回でも見ました、物価の差の問題です。例によって、国家公務員の大卒初任給(第2回と同じ指標)を参照します。

1965年4月採用の新卒初任給は19,610円。平成31年が186,700円ですから、約9.5倍換算となります。

675,000円×9.5=6,412,500円

うーん、ヨーロッパ16日間で600万円超えですか。今なら豪華客船の旅なんかに近い雰囲気かもしれませんね。庶民のぼくにはとても払えない値段でした。

更に当時は1ドル=360円の固定相場制です(1971年まで)。現地で使うお小遣いにも厳しく、ちょっとしたお土産を買うのに、日本円換算するといちいち高かったことは想像に難くありません。
何と言うか、元ZOZOTOWN社長の前澤さんが月旅行に行こうとして話題になっていますが、そのレベルで高価な感じがしてしまいます。

もちろん、この全てが航空運賃なわけではなく、ホテルや現地の移動や食事、添乗員の費用なども含めてです。しかし、今ときどき見かけるような「ロマンチック街道とパリ8日間 20万円!」みたいな値段ではないのは確かです。いかに海外旅行が、そして国際航空運賃が高額だったか、おわかりいただけるのではないかと思います。

なお、この高級ツアー、誰も申し込まなかったのかと思いきや、大変好評で、1965年の1年だけでジャルパックのお客様は2,000人を突破したそうです。

大量輸送時代を見据えた航空運賃の下落

この節は、昭和44年(1969年)の運輸白書を参照します。

【参考】
昭和44年 運輸白書(国土交通省ウェブサイトへのリンク)
III 航空/第1章 世界民間航空の現況と動向/第2節 国際航空企業の経営および運賃(上記白書のうち、本節の参照元)

IATAでは、1967年から69年にかけて、国際航空運賃へのバルク運賃適用を議論し、日本発着では69年にヨーロッパ方面で、翌70年に太平洋路線で導入されています。
バルク運賃とは、パッケージツアーでの利用を前提とし、一定数以上のまとまった座席数をまとめて航空会社から旅行会社に卸す場合に使われるもの。旅行会社はそれに現地地上手配など、ツアーの様々な要素と利益を加算して、ツアーとして一般消費者に販売します。旅行業界のベテランの方なら、よくご存知の販売形態でしょう。

バルク運賃は、適用される期間の制限や、旅行会社側の買い取りであることなど、様々な制約もありましたが、個人向け運賃の6割引きという圧倒的な安さ(さすがに社内に旅行会社向けの運賃表などは残っていなかったので、国交省やJATAの資料からの情報です)で、海外旅行相場の大幅低下をもたらしました。

しかし、なぜ航空会社は、利益を押し下げてまで航空券を大量に捌かなければならなかったのか。普通に考えれば、儲かる旅客をしっかり囲っていさえすれば、無理に安価で座席を埋めなくても儲かりますし、むしろ平均価格が下がることは高単価の旅客に悪い影響を与える恐れもあります。
その答えのひとつが、この節のタイトルにもある「大量輸送時代」。1970年1月にパンアメリカン航空の大西洋路線でデビューしたボーイング社の大型旅客機B747の存在でした。
当時、長距離国際路線の主力だったB707やDC-8は座席数150~200席程度。現代で言うとB767くらいのイメージを持っておけばいいでしょうか。対して、B747は300席以上(キャビンクラス設定により変わります)。いきなり供給座席数が倍になりました。従来の高値張り付きでは需要が急に増えるわけもなく、各航空会社は「値段を下げて、とにかく埋める」戦略に転換して、旅行会社の販売力に頼る流れができたわけです。
なお、この旅行会社主導の販売形態は、その後長らく維持され、今日のキャリア運賃全盛期に至る道筋のひとつともなるのですが、その話は追々。

B747導入による大量輸送時代と、それによる客単価の下落を見据えながら、しかし航空会社が直接販売する運賃を安くすると、元々いた高単価顧客にも影響してしまうため、「大型団体ツアー専用」として(日本発欧州行バルク運賃は、最小単位40席でスタート)旅行会社に安く流す。これが航空運賃下落の始まりでありました。

今回も長くなりましたので、この辺で。
次回は1960年代後半に存在した「協定運賃」というトンデモ制度のお話などを少々。お楽しみに。

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