【第31号】1. 日本発運賃の歴史と変遷(その23)日本の航空会社の路線拡大

 第24・25号あたりで、日本の航空会社が海外路線をどう増やしていったか、という話をしました。覚えているでしょうか。

 そのときは1980年代の話が主でしたので、今回は1990年代の日本発路線の様子を少し振り返ってみたいと思います。

 

前回までの記事はこちら

 

 

鶴丸は世界へ

 日本を代表する航空会社であったJALは、80年代から90年代にかけて、世界中に路線網を拡大していきます。日本人がいろいろなところに行くようになったから、というのもありますし、日本の顔として世界中を飛び回るのがいい宣伝になる、ということもあったでしょうか。鶴丸を描いた飛行機が、各地の空港で見られるようになりました。

 

 たとえば、1985年に開設されたデュッセルドルフ線。ドイツの事情に詳しい方なら、デュッセルドルフは日本人駐在員が多く、日本食レストランなども数多く並ぶ有名都市、とご存知かもしれません。ここにJALが飛んでいたんですね。

 今なら乗り継ぎ需要を取り込むため、フランクフルトやパリなど大規模な空港に就航することが一般的ですが、当時は日本から二地点間移動が主だったことが窺えます(フランクフルトからデュッセルドルフまでは近過ぎて、飛行機ではなく鉄道を使うでしょう。それで市内に直接入れるのなら、乗り継ぎ便と言ってもそこまで不便はなかった?)。

 

 80年代終わりは、外国の航空会社と共同運航という形で就航地点を増やしていました。いくつか例を挙げると、

◆ 1988年、タイ国際航空と名古屋=バンコク線の共同運航を開始

◆ 1989年、カナディアン航空と成田=トロント線の共同運航を開始

◆ 同年、カンタス航空と成田-メルボルン-アデレード-成田路線の共同運航を開始

 週1便で開設した路線もあり、最初は小さく、徐々に顧客開拓して便数を増やしていこうという方針が垣間見えます。

 

 

   

90年代は地方都市から海外へ

 成田は慢性的に混雑していましたし、海外渡航需要は首都圏だけではなく地方でも育っていたのが90年代。団体で海外旅行する人たちが、全国的に増えた時期です。

 

 JALのウェブサイトから、主な新規就航路線を集めてみました。

 

成田発着地方発着
1991年ワシントン線
フランクフルト=ベルリン線
名古屋=釜山線
広島=ソウル線
名古屋=サイパン=グアム線
1992年ミュンヘン線伊丹=ケアンズ=シドニー線
伊丹=バンコク=シンガポール線
名古屋=北京線
1993年ミラノ=ローマ線
1994年ジャカルタ=デンパサール線関空=ロンドン線
関空=パリ線
関空=ロサンゼルス線
関空=デンパサール=ジャカルタ線
仙台=ホノルル線
関空=ホーチミンシティ線
1995年動きなし
1996年コナ=ホノルル線関空=フランクフルト線
関空=デリー線
関空=ミラノ=ローマ線
1997年関空=バンコク=ヨハネスブルク線
関空=大連線
1998年大連線
青島線
ラスベガス線
名古屋=ロサンゼルス線
広島=ホノルル線
名古屋=ロンドン線
関空=天津線
名古屋=天津線
新潟=ホノルル線
1999年ダラス線関空=シカゴ線
JALの新規就航路線

 
 今では考えられないような、地方空港の充実ぶり。そして、業務渡航ではなく観光需要主体と思われるホノルルやデンパサールなんか、どうやって儲けていたのか想像つかないようなものもけっこう見えます。

 

 不採算路線が生まれてしまったのが、後の経営破綻に繋がっていく、というのはまた別の話として、次々に誕生した路線が、どういう運賃設定になっていたのか、次回見てみたいと思います。 

 それではまた。

 

この記事を書いた人:

関本(編集長)

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