【第35号】4. 社員紹介 #16~商品販売グループ 浜田

 社員紹介の第16回目は、営業部 商品販売グループの浜田です。 

 現在は営業部 商品販売グループで、WEBタリフ販促や販売業務を行っています。OFCで長く働かれて当時の様子や思い出のエピソード、さらには意外な趣味までお話を伺ってきました! 

OFCへ入社

――まずは入社のきっかけから、教えてください。

浜田  JALグループで働いてみたい!と思ったことがきっかけです。
短大卒業後2つの会社で迷っていたら、当時のOFCの常務から話を聞く機会があり、実際にオフィスに伺って、雰囲気と人をみて入社を決めました。当時は人数が少なくとてもアットホームな会社でした。

―― そうなんですね!入社後はどんな仕事からスタートしたんでしょうか?

浜田   最初は販売を行いました。入社時は右も左も分からない状態で、一から教えてもらうような新入社員でした。手のかかる新入社員だったと思います。当時家の電話はまだ黒いダイヤル式だったので会社のプッシュ式電話の操作に慣れず、先輩に転送したつもりが切ってしまうというミスがありましたね。電話応対も、先輩が電話しているのを聞きながら参考にして身につけていきました。入社3年目の時に現在も発行している「日本発運賃一般規則」の編集を任されたことがあったのです。他の方が書いてくれた原稿を見やすいようにレイアウトして印刷会社に渡す!!この仕事を任されたときはやっと1歩前進できて、少し先輩たちに追いついた気持ちで嬉しかったのを覚えています。そのあとは20代後半から4年くらい申請業務を担当していました。

インタビュー風景。色々と振り返ってもらいました。

バレーボールと推し

――趣味やハマっているものについて、ぜひ教えてください!

浜田   趣味は小学校低学年からやっているお箏です。父親の転勤などもあり、ずっと続けているわけではありませんが…。お箏は今休んでいますが、違う楽器をやるなら何をやりたいかと考えたとき、バイオリンやコントラバスが思い浮かんだのです。自分でも弦楽器が好きなんだなと変に納得したことがありました。

――浜田さんの雰囲気にぴったりですね~

浜田   あとは、バレーボールの観戦が好きですね。高校の体育の授業がバレーボールで楽しかったのがきっかけです。年に1回クラス対抗があるときは、すごい大声で応援しすぎて翌日喉が枯れました。私はもっぱら応援組ですが・・・

――えええ!意外です!!

浜田   短大時代には、小田急線のロマンスカーと箱根登山鉄道を乗り継いで、実業団の練習を見に行ったこともあります。練習は間近で見学できるので、アタックボールは迫力があって、中にはそのボールに当たってしまう人がいるくらい近い距離なんですよ。

OFC入社後は、社内のバレーボール好きの人達と、東京体育館や代々木体育館に国際試合を観に行きました。江口さん(企画総務部)とも行ったことがあるんですよ!

――すごい熱量!ロマンスカーに乗っていくなんて、もはや旅行ですね!そして、OFCにはスポーツ好きな人が多いんですね。浜田さん的楽しいポイントを、ぜひ教えてください。

浜田   試合自体にスピード感があるところかな、みていて飽きないですからね。試合の展開が早いところです。国際試合にもなると互角な戦いで試合が4時間以上かかったこともあって、その試合観戦はさすがに疲れました。

――ありがとうございます。私も試合、見てみようと思います!

浜田   実はワールドカップの試合を観戦しに行ったとき、会場が急に暗転になったと思ったら、横から若い男の子たちが出てきて、歌を歌い始めたんです。どこの誰!!という感じで見ていたら急に歌を歌い始めて。後々知ったのですが、この前解散したV6がワールドカップのメインサポーターをしていたんですよね。あとその繋がりではないのですが、ジャニーズといえばHey!Say!JUMPも好きです。

――これも意外なお話…!ジャニーズはバレーボールのサポーターもやっていましたが、どう繋がったのでしょうか?

浜田   テレビのドラマに出てきて可愛い子達がいるな~!と思っていたのがきっかけです。ただ当時はジャニーズJr.の子だとは知らず…。後にジャニーズjr.の子だと知って、演技が上手な子もいるんだなと思っていたら期間限定ユニットでCD出して、同じ年に正式デビューしましたね。同じ年にはバレーボールのワールドカップ試合もあったので、試合を観戦しに行ったときは大きな声で応援していました。

――たまたまが凄い!笑 ぜひこちらも、浜田さん的推しポイントを教えてください。

浜田   みんながわちゃわちゃして楽しそうな姿を見るのが、疲れやイライラを癒してくれます。共演者によく「中学校の教室みたい」と言われていますが、ピュアで一生懸命、可愛くて面白い。あとHey!Say!JUMPはみんなで考えて、自分たちをプロデュースしたり、色んな人に曲を書いてもらっていて、型にはまった感じでないところも好きですね。ダンスが上手なグループはたくさんありますが、 Hey!Say!JUMPはメンバー間の身長差が最大20cmあるのに首や頭の角度、手や脚の上げ下げが合っている。それって、長年かけて培ってきた結果だと思うんです。お互い認め合っていて、信頼性があるからこそ生まれてくるダンスだともいえるのかな。。。親目線での応援です。

――ありがとうございます!

実は台車で運んでました

台車は一体なににつかっていたのか?!

―― 入社の経緯に戻りますが、当時のOFCはどんな感じだったんでしょうか?

浜田   当時のOFCは、運賃申請とOFCタリフの総販売元、あとoagという航空時刻表の総販売元として営業していました。
OFCタリフは、当時JALのフェアデスクで制作してもらっていました。そのころの運賃はキャリア運賃ではなく、IATA運賃のみでした。なので、書籍もかなり薄い本でしたね。

――OFCは総販売元だったんですね。

浜田   そうです、一番売れた版では1万5千部以上も販売していました。その時代はまだワープロが主流でパソコンがなかったので、入社3年目くらいまでは注文を受けたら手書きで宛名を書いて、完成した書籍が届いたら、みんなで封入して…。

――もの凄く大変…

浜田   本当に大変でした。当時は丸の内の郵船ビルにオフィスがあったので、封入した書籍は東京中央郵便局までなんと台車に載せて運んでいました。

――台車で運ぶだなんて、想像以上です…何人くらいで行っていたんですか?

浜田   営業部の5人程だったと記憶しています。
本が発行されるときはバタバタして、残業が当たり前でした。今のようにシステム化されていなかったので、いわゆるアナログ時代で今考えると違う意味で大変だったと思いますね。

――今の忙しさとはまた違う感じだったんですね。

浜田   ゆくゆくは、OFCの発行物として創刊できるようにと出向の皆様が土台を作ってくださり、いまに至ります。そのあと、色んなものがシステム化されていきましたが。。。

――その後、タリフに異動になり、申請業務を行っていく。ということですね。 

浜田   そうですね。20代後半から3~4年間ほどは申請業務を行っていました。申請業務もIATA運賃だったので、年に1回IATA会議で決定したものを、申請書を作成して航空局に申請する~という感じでした。申請の流れは基本的には今と同じですが、取り扱う航空会社と運賃数が全然違いますね。会議が秋から冬に実施されるので、12月の初旬から下旬まではひたすら申請書作成の日々でした。当時はパソコンではなくワープロだったので、これまた時間がかかりました。仕事が終わったら夜中で終電ももうない!!方向が同じだった管理職の方とタクシーで帰ったことが何回もありました。

当時の商品たち、これはまだ一部とのこと。

――沢山あるとは思いますが、思い出に残っていることはありますか? 

浜田   AIRPORT INDEX という本が印象に残っています。ご存じの方もいらっしゃるかとは思いますが、これは世界中の空港の見取り図的なものが載っています。当初は他の会社に依頼していましたが、ある時期からOFCの社員が実際に現地の空港まで行き(一部ですが)…取材をして…原稿にして…本を制作していました。担当していた人はすごく大変そうで印象的でした。ただ、アメリカの同時多発テロ以降は、空港のセキュリティも厳しくなり空港の取材が難しくなり、残念ながら現在は発行していません。このほかにもイミグレ、VISAの書籍も制作、発行していたのでこのころは自社商品がたくさんありましたね。

――海外出張があったんですね~初めて知りました!今回見せていただいた書籍は初めて見るものが多くて、歴史の深さを感じております!

編集後記

いつも穏やかで、ふわ~っとしたマイナスイオン的な雰囲気を生み出している浜田さん。
今回のインタビューもお忙しい中、いっぱい時間を作っていただきました!(ほんとにありがとうございます涙) お客様から「浜田さんいますか?」と電話やメールをいただくこともあり、人柄の良さは仕事に繋がるんだなと日々尊敬しております。
これからも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!

今回の聞き手:

吉田(企画総務部)

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